Farmer's Talk Pop

(2018年12月末、はてなダイアリー「夢男のファーマーズ・トーク」を統合しました)

吉野家の牛丼

今日、吉野家の牛丼が限定販売だった。3連休最後の日、子供たちをどこにも連れて行っていなかったからと、街に食事と買い物に行ったら、吉野家の前に長蛇の列。見たところ、独身らしき男性たちの他にも家族連れがチラホラ。嫁さんにニュースに出てたね、と説明したら、「牛肉買って、家で作ったほうがおいしいのにね」だって。


吉野家の牛丼はここ14年ほど食べてはいない。サラリーマン時代、駅から独身寮までのちょうど中間あたりにあったので、たまには利用した。でも、外食した数からすると、吉野家の牛丼は回数的にはほんの少し。ほとんどはラーメン屋か定食屋。


独身者にとって、外食はまさに生命線。日頃、寮の食事だが、日曜祝日は出ないので、外食に頼らざる得ない。友人と一緒に食べるときはそうでもないのだが、ひとりで食べるとき(たいがいはそうだった)は、外食ほどわびしさを感じるものはない。夢男にとってその典型が、吉野家の牛丼なのだ。
けっしてまずくはなかった。でも、そんなにおいしいとも思わなかった。できることなら、これを食べなくてはならない生活はしたくはなかった。誰かに作ってもらった食事を食べたかった。「吉野家の牛丼」には、そんな思いが凝縮されているのだ。だから、米国産牛肉が輸入禁止となって、牛丼が食べられなくなると報道されても、夢男にとっては、どうってことなかったのだ。そんなことが思い出された。


「家庭」って何かと考えたとき、「家族との食事」と言った人がいた。家族らしいこと、家庭ならではということを考えたら、一緒にいることはもとより、一緒に食事をとるということが必須である、と夢男も考える。さらには、母親が作った料理、ということが条件に加わる。米と野菜を作っている農家である夢男にとって、家庭での手作りの食事というのは、生活の基本だ。例えば、仕事が忙しいからと外食と市販の弁当という食事の農家がいるとすれば、それは農家であって農家でないと考える。これだけは譲れないことだ。それは、嫁さんには充分伝わっている。嫁さんももとより、そう思っている。


今や飽食の時代で、食べることにはまったく困らないが、「愛のある食事」がどれほど存在するのか、かなり疑問ではある。外食は手軽だ。手軽な値段て食事ができる。ある意味、家族の人数と時間を考えると安上がりなのかもしれない。でも、それだけでいいのか。安くて手間がかからないというだけで食事を簡便にしてもいいのか。


吉野家の行列を前に、独身時代のわびしさを思い出した夢男なのであった。