Farmer's Talk Pop

キュウリ農家 "夢男"の好きな映画や音楽や・・・

おじさんって、本当にイヤだね…

ヘッドライト HDリマスター版 ジャン・ギャバン/フランソワーズ・アルヌール [DVD]

ヘッドライト
BSプレミアム(2回目)、☆5(やっぱ、☆4.5かな。哀しいから)

ジャン・ギャバン演じるしがない長距離トラック運転手とドライブインのウエートレス、フランソワーズ・アルヌールの悲恋映画。

この映画を初めて見たのは確か中学生の時。当時はNHKの教育テレビで月一回の名画劇場をやってて、そこで見たのが最初で今回は2回目。三十何年経ってるのになんで今さらかといったら、フランソワーズ・アルヌールが演じるクロが可哀想で可哀想で二度目はとても見られなかったからだ。先日BSの番組表でタイトルを見たら、昔のことを思い出しつつ、今はどう思うかと見たくなってしまった。おっさんとなった現在なら見方も変わるのか。変わらなかった。いや、その哀しさの理由がよりはっきりした。

クロがかわいそうな原因は全てジャン・ギャバンおじさんのせい。若い子に手を出したことが全て悪い。長距離トラックの運転手という重労働と子だくさんの満たされない日々。自分と同じように年取ってしまった妻。そんな時に偶然出逢ってしまったのがフラソワーズ・アルヌールだとしたら、ジャン・ギャバンおじさんでなくてもその若さと自分が失ってしまったものに憧れ、惹かれてしまうのは間違いない。仕方のないことだと思う。でも、老いた男はそこにすがってはいけないのだ。そこが踏ん張りどきなのだ。教訓。

暗く哀しい映画「ヘッドライト」。この作品に惹かれてしまうのは、ジャン・ギャバンとフラソワーズ・アルヌールとモノクロの映像がとても印象的だからだ。こっちまで眠気を誘う運転シーンの描写のすごさは中学生の僕にも伝わったぐらい。もっともドライブインのわずかな時間の逢瀬を待ちに待っている二人の心情は大人になった今だからこそわかったのだけれども。

劇中、圧巻なのは大雨の中をギャバンが運転する牛を運ぶトラックの場面。彼女に夢中になる前には大型の新型らしいトラック*1を運転していたのに、会社を辞めて古い家畜専用トラック運転手へ落ちぶれてしまう。そのトラックで二人は新天地へと向かうのだが・・。道中、体調の悪いクロがますます具合が悪くなっていくのだが、見ているこっちまで具合が悪くなってくるぐらいのリアリティ。変な人形。鳴き声を上げる牛。降り止まない雨。いつになったら着くのかわからない。本当に希望のない話。

そうそう、中学生の僕がフラソワーズ・アルヌールに興味をもった本当のわけ。石ノ森章太郎の『サイボーグ009』のフラソワーズ・アルヌールと同じだから。ふふふ。

*1:きっこのブログ」〜映画『ヘッドライト』が照らしているものは? http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2014/06/post-0380.html に詳しい

『オデッセイ・ファイル』に見えたもの

アーサー・C・クラークの『オデッセイ・ファイル』読了。副題に「パソコン通信のすすめ」とあったのがとても懐かしく、とても興味を惹いた。この本は二つの面から読むことができる。一つはSF作家アーサー・C・クラークと映画監督ピーター・ハイアムズとの映画「2010年」の製作過程での「書簡」のやり取り。二つ目は、その二人の往復書簡が1983年の当時では非常にめずらしかったパソコン通信の電子メールやファイルのやり取りとして行われたこと。それもスリランカコロンボ在住のクラーク先生とロサンゼルスのハイアムズ監督との地球の裏と表とで、モデム〜パラボラアンテナ〜通信衛星を介してパソコン間で直接のパソコン通信なのだ。

順序が逆だが、まず二つ目から。僕がパソコン通信を始めたのは忘れもしない1994年。当時、サラリーマン生活を止めて実家で農業をすることをある人に伝えたらその人ははこう言ったのでした。
「田舎に帰るならパソコン通信をやったら」
「パソコン持っているなら、モデムを繋いで通信しないとつまらない」
パソコン通信していれば、田舎でも都会でも同じ情報を得ることができる」
そして、その次の日、秋葉原にモデムを買いに行き、パナソニックの14400bpsのものを買った。確か5万円ぐらい。2400bpsのはずっと安かったけど、めずらしく高いのを選んだのだ。そして僕にはニフティサーブでのパソコン通信生活が始まった。

クラーク先生たちのパソコン通信は通信速度300bpseだったらしい。音響カプラを使ってのデータ通信。パラボラアンテナで衛星回線を使ってのデータ通信だから電話代は目ん玉が飛び出るほどのものだったらしい。本棚に残っている『月刊アスキー』(2006年8月号)の記事、コンピュータネットワーク年表を見ても当時の日本ではパソコン通信は始まっていなかったようだ。アスキーネットが1985年、PC−VANが86年、NIFTY-Serveが87年。パソコン通信ASAHIネット)で読者と交流しつつ、時にはストーリーが読者の意見が反映されたものになるという朝日新聞連載のSF小説筒井康隆朝のガスパール』でさえ、1991年。『朝のガスパール』のパソコン通信上でのやり取りはログ集としても発売されたようだ。ちなみにクラーク先生もやり取りの出版を想定していたからこそ『オデッセイ・ファイル』が発売されたのである。クラーク先生も筒井先生も商売上手はさすがなのである。

さて、一つ目。『オデッセイ・ファイル』での映画「2010年」の裏話がとても興味深い。あの名作中の名作「2001年宇宙の旅」の続編がどのようにして作られたか。Wikipediaのこの映画の項に

…略…ピーター・ハイアムズはクラークとキューブリックの両方に連絡をとった。キューブリックはハイアムズに「恐れてはいけない。自分の映画を撮れ」と語った。1983年にハイアムズはクラークと連絡を取りながら脚本を完成させた。

とある。要するに最後の一文がこの本の内容なのである。

「2010年」のストーリーはというと、舞台は「2001年…」の9年後となる。アメリカとソ連の外交的緊張が高まる中、ソ連の宇宙船レオーノフ号でHAL9000の故障の原因を突き止めるための米ソの合同調査が始まる。責任者はディスカバリー号のボーマン船長の上司フロイド博士(ロイ・シャイダー)。巨大なモノリスが出現したりトラブル続きで調査は難航。一方、緊張状態にあったアメリカとソ連が遂に実質的な戦争状態になる。レオーノフ号のソ連とアメリカの乗組員の運命は。モノリスの秘密とは。

この本では、ディスカバリー号とレオーノフ号のドッキングなど宇宙船の構造などの科学考証、宇宙船内でのソ連とアメリカの立場、ハイアムズ監督の「2001年…」で続編であることでのプレッシャー、そしてクラーク先生の博学さ、交友の広さなどファンなら泣いて喜ぶ内容ばかり。久しぶりに「2010年」を見たくなった。

それともに興味深かったのは、クラーク先生とハイアムズ監督のやり取りがまるで昔からの師弟関係のようでとてもいい感じ。自分の師とやり取りを思い起こすととても身近で心に来るものがある。時代が変わっても立場が変わっても腹を割った交流というものはとてもいいもの。痛感した。


オデッセイ・ファイル―アーサー・C・クラークのパソコン通信のすすめ

オデッセイ・ファイル―アーサー・C・クラークのパソコン通信のすすめ

朝のガスパール (新潮文庫)

朝のガスパール (新潮文庫)

「エイリアン:コヴェナント」への失望

リドリー・スコット監督の「エイリアン」は本当に衝撃的な映画だった。SF映画はいろんなタイプがあるけど、「エイリアン」系の近未来でリアルっぽい宇宙ものは大好物。ノストロモ号は貨物宇宙船だからどこかの入植惑星へ荷物を運んでいるわけで、貨物船だから乗組員が作業着であるとか、船内が暗くて汚いというのはとても納得できた。人の活動するところであれば、掃除ばっかりやってる係がいない限りは汚れてしまうのが常である。ましてや宇宙でのロジスティクスであれば、最小限の手間と予算で最大限の効率を求められると思うから、武器のないのもそうだろうそうだろう。一方「2001年宇宙の旅」はピカピカにきれい。宇宙旅行だから、あのきれいな宇宙船内はあれはあれで納得なのではある。それぞれなのである。

エイリアン:コヴェナント (字幕版)

エイリアン:コヴェナント
Amazonビデオ、☆2.5(画はきれいなので0.5おまけ)

で今回、ようやく「エイリアン:コヴェナント」を見ることができた。この間観たリドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」の監督違いの続編「ブレード・ランナー2049」もそうだけど、続編ものは予備知識を入れない方がだんぜん楽しめる。その「ブレラン2049」最高でした。オリジナルの空気をわかって作っている!今回もその調子で続編を見たかった…のに。って、なんで…のに!?

今回のエイリアン・シリーズは、オリジナルの「エイリアン」の前日譚となっている。前作の「プロメテウス」の舞台設定から10年後なのだ。そしてオリジナルの話へと続くとか。そんな感じで本当は興味深い話のはずなのにオリジナルの関連作としてみると全くおもしろくない。もっとも、オリジナルを知らなくて見れば「プロメテウス」の続きとしてはいいのかもしれないが。

ネタバレは避けるけど、要するに「いつかどこかで見た聞いた」「あれはおかしい」ということばかりなのだ。タイトルバックからしてオリジナルに負けてる。ドラマがそもそもダメなのだ。登場人物が魅力的じゃないことがダメなのだ。画はきれいなのだけれども、決定的にダメだね。「プロメテウス」もダメだったが、これだったらまだましだったのかも。