Farmer's Talk Pop

(2018年12月末、はてなダイアリー「夢男のファーマーズ・トーク」を統合しました)

秋晴れの中で…

家族が家族らしいと思えること。それは車に乗ってどこか遠くに家族全員で出かけること。ずっと家で農業をしている我が家族にとってそれはかけがえのない一大行事。
その日は暖かく、天気がよく、皆の気分も晴れやかだった。次の日が次女の誕生日ということもあって、どうしても出かけたかった。それで新潟の街に行くことにしたのだった。
4人の子供たちが小さかった時はどこかへでかけるというと準備こそ大変だったが、日程を決めるのはとても簡単だった。上の二人の姉が中学生となり部活で忙しい現在、下の小学生の妹と弟たちと休みが一緒になることは滅多にない。逃してはいけない日…。
そして出発。山間のカーブの続く国道113号線から日本海東北自動車道で一路、新潟市へ。最初の目的地、新潟市歴史博物館"みなとぴあ"。新潟市の万代橋の近く。佐渡へのフェリー乗り場の対岸。整備されたとてもきれいな施設と敷地内の公園。岸壁のベンチで持参のお稲荷寿司弁当を食べる。青い空。海からの風が気持ちいい。
博物館で"新潟"といわれる所以の湿地の多い土地を干拓して米作りをしてきた歴史を知る。田舟の欠かせなかった稲刈り。江戸時代、天保年間に新潟から山形・置賜地方に移住してきたという我が先祖に思いを馳せる…。
女の子たちと嫁さん、お待ちかねのショッピングビルでのお買い物のあと帰途につく。山に囲まれた生活の中では、海の街は見えるものすべてが素晴らしい。つかの間ではあったが、家族皆、楽しめた一日だった。

帰る途中、家から電話があった。帰りが遅くなるのなら、夕食を始めているとのこと。そしてそのあと、2度目の電話。祖母が食事の後、嘔吐して気分が悪くなったので救急車を呼んだとのこと。高齢でもあるので、大事を取っての対応なのだろうと思いつつ、帰路を急ぐ。途中、嫁さんと「明日は(次女の)誕生日だからなんだか心配…」と話す。家にあと30分ぐらいの所から電話をする。まだ、病院から連絡はないらしい。その日出かけるのを見送った祖母はいつものとおり元気だった。これまでも血圧が高い以外は特に体の悪い所もなかったはずだ…。でも、なんだか胸騒ぎがした。
家に到着すると留守番をしていた父にはまだ連絡がないという。父はそのまま、祖母と付き添う母のいる病院へ。そしてしばらくして連絡が入る。意識が戻らず、予断を許さない状況と。救急車の中で既に話せなくなってたらしい。…子供たちも自分も嫁さんもなにがなんだかわからなかった。だって、そのわずか1時間前まで、自分たちの帰りを心待ちにしていたはずの祖母だったはずだからだ…。皆、わけがわからなかった…。

次の日、祖母は亡くなった。93歳。治療不可能な広範囲な脳内出血だったとのこと。あまりにも性急すぎる別れだった。 亡くなったその日は次女の誕生日であり、祖父の命日。新潟からの帰路の嫌な予感は現実のものとなった。
なぜなのか我が家は、家族の「誕生日」と先祖の誰かの「命日」が一緒になる傾向がある。私の誕生日と曾祖母の命日が一緒。嫁さんとそのまた上の曾曾祖母が一緒。そんなこともあっての心配だったのだ…。
まだ小さかった祖父の時と違って、子供たちは今回のことはよく理解できる。それだけに悲しみも深く、相当ショックを受けたようだ。大人たちはあまりの突然のことに驚き、しかし、祖母本人が常に言ってた「皆に迷惑をかけないで逝きたい」「田畑が忙しくないときに…」を考えるとあまりにあっぱれな最後で、悲しみのあとには尊敬の念すら覚えた。医者の説明で患部の部位から考えると苦しむ間もなかったこと、健康で長生きしたこと、祖父と同じ命日になったこと(病院でも珍しいことらしい)を考えると、祖母は本当に大往生だったと言える。
こんな風に落ち着いて書けるのも初七日を終えて、少しずつ普通の生活に戻りつつあるから。不思議と平穏な気持ちもある。信心深い祖母が祖父や同時代を生きた昔の家族と一緒になって、我が家族、我が"家"を見守っていてくれると思えるから。
これまで農作業を終えて家に帰ってくるとご苦労様と言ってくれた祖母。子供たちの学校からの帰りを待っていてくれた祖母。庭に落ちた柿の葉をはいていた祖母。そしてベンチに座っていた祖母。その姿がないことになんとも言えない悲しみを覚える。
お疲れさま。安らかに眠ってな…おばんちゃ…